第1話「クリックが怖いんです」
「もしもし、パソコンを壊しちゃったかもしれなくて……」
電話口の声は、どこかおずおずとしていた。
出張サポートを請け負うマー先生のもとに入ったのは、68歳の佐知子さんからの相談だった。
「ボタンを押したら、変な音がして、それ以来、怖くて触れなくなって……」
話を聞くうちに、パソコンそのものが壊れたわけではなさそうだと、マー先生は見当をつけた。
土曜の午後。静かな住宅街の一角、庭に紫陽花が咲く平屋にマー先生は訪れた。
「こんにちは、マー先生?ああ、ほんとに来てくださったんですね……!」
出迎えてくれたのは、小柄で上品な佇まいの佐知子さん。
リビングのテーブルに、開いたノートパソコンと、手の届かぬ距離に置かれたマウスがぽつんと乗っていた。
「マウス……怖いんです」
「えっ……マウスが?」
「だってこの矢印、勝手に動くんですよ。どこに行くか分からなくて……」
マー先生は思わず笑いそうになったが、ぐっとこらえた。
「大丈夫ですよ。矢印は勝手には動きません。動かしてるのは、ご自身の手ですからね」
まずは、マウスの持ち方から丁寧に説明。
「親指と小指で軽く支えて、あとは人差し指でクリックします。左が“決定”、右は……まぁ、今回は置いときましょうか」
「右クリック、なんだか強そうな響きですよね……。押したら爆発したりしません?」
「しません、しません(笑)」
緊張で手がこわばっている佐知子さんに、使い古したマウスパッドを差し出し、
「これ、私のお守り代わり。これを敷くと、マウスもおとなしくなります」と冗談めかすと、ようやく笑いがこぼれた。
マウスを握り直す手に、そっと手を添える。
「じゃあ、この“スタート”ってところに、そっと矢印を合わせて、えいっ、って」
「……えいっ!」
「クリック、できましたね」
佐知子さんは数秒固まり、じっと画面を見つめた。
「……あれ、何も壊れてない?」
「はい、それどころか、ちゃんと動いてますよ」
「すごい……私、できたんですね……!」
その笑顔は、クリック一つで開いたウィンドウよりもずっと、明るく晴れやかだった。
「パソコンって、壊すもんじゃなくて……使うものなんですね」
「そう。パソコンは“味方”なんです」
帰り際、佐知子さんは手帳にメモを取りながら言った。
「次は、メールにも挑戦してみたいです」
「もちろん。またお手伝いしますよ」
その日の夕方、マー先生のスマホに新しいメールが届いた。
差出人は未知さん。「ご近所の佐知子さんに紹介されました。私もパソコンがちょっと……」
奮闘記は、まだ始まったばかり——