「昨日書いたはずの原稿が、パソコンを開いたら真っ白なんです。保存したのに消えたなんて……どうしたらいいんでしょう?」
電話の向こうで震える声がした。依頼主は編集者をしているという五十代の女性・佐山さん。締め切りを目前に控えた原稿が、忽然と姿を消したらしい。マー先生はいつもの肩掛けバッグに工具を忍ばせ、早速佐山邸へと足を運んだ。
玄関を開けた瞬間、佐山さんは半ば泣きそうな表情で迎えてきた。
「先生、助けてください……!」
リビングにはノートパソコンが机に置かれ、その横にコーヒーカップと大量の参考資料。机上の光景から、夜遅くまで作業していたことが伺えた。
「では、状況を確認させていただきますね。」
マー先生は椅子に腰掛け、パソコンを立ち上げた。
確かに、文書ソフトを開くと真っ白な画面。保存されたファイルを開いたはずなのに、内容がまるで消しゴムで消されたかのように空っぽだ。
「先生、もしかして……誰かに盗まれたんでしょうか?」
佐山さんはおどおどとした声を漏らす。
「盗まれることはまずありませんよ。ですが、ちょっと調べてみましょう。」
そう言いながら、マー先生はファイルの履歴を確認した。すると「昨日の深夜に上書き保存」と記録が残っている。
「やっぱり私が寝ぼけて消しちゃったんでしょうか……」
「いや、そうでもないかもしれません。」
試しにバックアップフォルダを探ると、同じ名前のファイルが複数見つかった。中身を開くと、なんとそこには文章の断片が保存されていた。
「ほら、昨日の途中までの文章が残っていますよ。」
「えっ、本当ですか!? でも……全部じゃないですよね?」
佐山さんはホッとしたような、でも不安げな顔をする。
「どうやら、途中で“自動保存”が働いていたみたいですね。電源を落とす前に、別の空白ファイルを保存してしまったようです。」
「うわあ……。じゃあ、私が最後に『名前を付けて保存』したときに、間違って新しいファイルに上書きしちゃったんですね!」
「そういうことです。」
「でも先生、原稿のタイトルって『恋するプリン研究』なんですよ。バックアップの中に“こいするぷりん研究最終2”“こいするプリン研究ほんとうの最終”とか、いっぱいあって……どれが最新かわからないんです!」
「……なるほど。タイトルが多すぎて迷子になってるんですね。」
マー先生は思わず苦笑した。
「しかも、プリンのレシピばっかり並んでいて、途中からエッセイなのか料理本なのかわからなくて……」
「いやあ、珍しい原稿ですね。」
結局、マー先生はファイルの更新日時をひとつひとつ確認し、最新のものを探すことになった。
帰り道。夕暮れの道を歩いていると、マー先生のスマホが震えた。
画面には新しいメッセージ。
「先生、パソコンから突然、謎の声がするんです。『こんにちは』って誰もいないのに……!」
思わぬ“おしゃべりパソコン事件”の幕開けを予感させる通知だった。
マー先生の珍事件録は、まだまだ続く——。